| (”不洗観音寺公式ホームページ”より) |
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日頃、人から親切にされると、「あの人は仏さんのような人だ。」とよくいいます。
”仏さんのような”ではなく、まさに、”仏”そのものなのです。弘法大師 空海(普通”お大師さん”と呼ばれます)が、「仏法遥かに非ず、心中にして即ち近し」といわれました。仏法という仏さまとか仏さまの教えは、遠い手の届かないところに居るのでなく、もっともっと近い私たち自身の心の中におられるのです。
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合掌した仏さまをごらんになったことがあるでしょう。なぜ、合掌されるのでしょう。 仏さまは私たちに、手を合わされているのです。「あなた自身の心の中に、仏様がおられますよ。早く、その尊い心に気付いてください−。」と手を合わせて祈っておられるのです。
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毘沙門さま、聖天さま、不動さまとか多くの仏さまがおられます。私たちが生活していく上で、どのようにしたら幸せになれるかを説いた仏教の教えを、それぞれの仏さまの形で象徴して、寺院でおまつりしているのです。日本全国の寺院で、観音様が一番たくさんおまつりされています。西国三十三カ所など、多くの観音霊場があるように私たちに一番親しみがある仏さまが、観音さまです。
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観音様は、インドではアバロキテーシュバラといいます。これを中国で、観世音菩薩、観自在菩薩と漢字に直されました。この名の通り、世の中の音を観る、自在に観るということです。
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「観音経」の一節に「もし無量百千万億の衆生があって、もろもろの苦悩を受けるに、是の観世音菩薩を聞き一応に名を称ふれば、観世音菩薩即時に其の音声を観じて皆解脱を得しむ」とあります。一心に観音の名を称えれば、色々な姿に変わって、どんな私たちの悩み苦しみも見逃すことなく救ってくださるという意味です。ですから、観音さまに願いをかければ、何でもかなえてくれるのです。
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観音さまは、蓮の花を持たれています。蓮の花は沼地に花を咲かせます。汚い沼地に根を下ろしても、その汚れをよそに、佳麗な華を咲かせるのです。人の心も同じです。たとえ環境が悪くても、清浄なすばらしい心をもっていられるのです。人間だれしも、仏・観音さまの心をもっていることを、蓮は意味しています。観音さまの心とは、どんな心でしょう。観音さまは、私たちのどんな苦しみも解決して下さいます。が、観音さまの本当の願いは、私たちが観音さまになることです。観音さまが私たちを救われるように、私たちも周りの人々を救うのです。これはたいそうなことではなく、ちょっとした思いやりです。人々の心の苦しみをとり、楽しい思いにさせるという抜苦与楽(ばっくよらく)、すなわち”慈悲”の心です。
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慈悲の”慈”とは友情、この友情は特定の友のものではありません。また人間だけとも限りません。私たちをとりまく自然のすべて、鳥や魚、みんな友達です。同じ空気を吸い、同じ水を飲む仲間たちだ、と実感するのが”慈”です。
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”悲”はうめき・痛み、友の痛みやうめきを、自分のものとして受け取る心、人の苦しみを自分の苦しみとして受け取る心です。大自然の喜びや苦しみを、自分のそれとして受け取れるのが「もののあわれ」です。”悲”です。ちょっと愛に似ています。しかし、裏切られると憎しみに変わるような愛ではなく、裏切られれば裏切られるほど相手をいとおしまずにはおられない、大きくて深い”愛”です。
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この慈悲をもって、人間らしい道を生きていきなさいというのが観音さまの教えです。そうして、観音さまは、あなたがいま、そこにいるように、会いたいと思えばすぐ会えるように、私たちのすぐ身近に、私たち自身のなかに、さまざまな姿形をして、私たちとともにいらっしゃるのです。
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| (”曹洞宗 正木山西光寺→仏教講座”より) |
観音様は観世音菩薩ともいいます。
「観」はみる、ただ見るのではなく、よく観るのです。 「世」は世間の世であり、世の中の意味です。 「音」は衆生の悩みや苦しみの声とか救いの音声であり、世間の私たち衆生の苦しみや 救いの声を聞きつけて馳せ参じてくださる菩薩様ということです。
観音様は無相であり、無我であるから宇宙のあらゆるところに縦横無尽、 円融無碍(えんゆうむげ)に現れることができます。 心に障碍、執着、わだかまりがないから自由自在。そこで観自在菩薩ともいわれるわけです。 観音様には、聖観音、千手観音、十一面観音、如意輪観音様などがいらっしゃいますが、容姿がたいへん美しく、その端麗なお姿を見ているだけで心の中まで洗われるような気がしてまいります。
あらゆる人々を救ってくださるその慈愛に満ちたお姿から女性の菩薩ではないかと 思っている人もいるようですが、実は観音様は女性でも男性でもないのです。 といって中性という表現も当てはまらないように思います。 必要に応じて刹那刹那にあらゆる姿に変化される「かたよりのない存在」とでも申しましょうか。
その象徴があの気品と慈愛に満ちたお姿になっているのでしょう。 観音様はもとは「正法明如来」という如来様であったと言われています。 それが、高い位の如来であると低い段階にいるわれわれ衆生を救うことができないというので、 わざわざ一段位の下がった菩薩となって一切衆生を救おうとされているのです。
この観世音菩薩のことを述べたお経が「観音経」で、法華経のなかの第二十五章に相当するお経です。正式には「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」といいます。 ところで、この妙法蓮華経というお経の題目の意味を少し考えてみましょう。 法華経は大乗経典のなかでも、もっとも有名なお経で、「諸経の王」「経王」などと言われています。
妙法とは「諸法実相」ということで、宇宙に存在する全てのものの「ありのままのすがた」ということです。 すべてのものの有り様が「妙法」なのです。 あたりまえのすがたそのまま、それが、道元禅師の「眼横鼻直」であり、 禅語の「柳は緑、花は紅」であるのです。
この世に存在するすべてのものの、森羅万象のありのままのすがたが妙法であり、 如来のすがたであるのです。
峰の色谷のひびきも皆ながら我が釈迦牟尼の声と姿と (道元禅師)
「蓮華」は蓮のことであり、蓮は泥池でなければ美しい花を咲かせない。 その美しい花は泥の中からこそ咲き誇ります。そこに蓮の特徴があります。 泥池が衆生であり、蓮華が仏であるのです。
泥池があるから蓮華がある。 衆生があるから仏があるのです。 つまり、泥池=蓮華、衆生=仏なのです。
衆生本来仏なり、水と氷のごとくにて、水をはなれて氷なく、衆生の外に仏なし。 衆生こそ仏にほかならない。 われわれ凡夫は仏を遠くに求めたりしますが、自己自身が仏にほかならないということです。
仏教とは「自らが仏になる教え」であり、観音経は「自らが観音様になるおしえ」だと言えるでしょう。 しかし、誤解されてはいけません。
ただ、何もせずに仏や観音様になれる筈などありません。
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観音様のお経「観世音菩薩普門品」と言いますが、この「普門」という意味は 「普(あまね)く衆生を済度するための入り口」という意味です。 「あまねく入れる門」とは、いつでもどこでも誰でも入れる門ということです。 前回、観音経とは「自らが観音様になる教え」だといいました。
しかし、「ただ何もせずに観音様になれる筈などありません。」ともいいましたが、 実はその答えとも言うべき解答が、この「普門」という門に入ることなんです。 誰でも観音様になるためにはこの門に入りさえすればいいのです。 では、この門に入るにはどうしたらいいのでしょう。
観音経は「一心称名」だと説いています。 「一心」に「南無観世音菩薩」と至誠をもってお称えすればいいというのです。 ただ形式的ではなく心から純一無雑にお称えしなければならないのです。 実に簡単なことのようですが、実はこれが大変難しいのです。
試しに何も考えずに「南無観世音菩薩」と称えてみてください。無心になりきって何回できますか。 最初から出来ないのは当然なんです。鍛錬よりも何よりも、その前にまず信じる気持ちが必要なんです。 観音様を「信じる」かどうかなんです。 まず「信じる心」が無ければ何事もはじまらないのです。
宗教は信じることから始まります。 信じなければ何も始まりません。 「信じる」ことが絶対条件なんです。 「信じる」次が「行ずる」ことです。 「信じて行ずる」ことで「無心」「無我」になれます。
「観音様」と一体になれた瞬間です。 その時こそ観音様が自分の中に入り込んだ瞬間なんです。 無心無我こそ無碍の心であり観音様の心なのです。 何にもとらわれない、何にも執着しない、何にもこだわらない世界が「無一物」の世界であり 「無尽蔵」の世界なのです。
何も無いが同時に全てのものが手に入るという涅槃の世界が出現するのです。 分別妄想の価値観の世界ではなく無相の絶対価値観の世界が出現するのです。 現在の人間世界は正に分別妄想の虚構の世界の中で苦しんでいます。 われわれ凡夫の心は貪り、瞋り(怒り)、痴(愚かさ)の三毒をはじめ 八万四千の煩悩によって乱れに乱れています。
人類が出現して数百万年、人間の歴史が始まってからすでに五・六千年にもなります。 文化文明・科学は想像を超えて進歩してきました。 しかし、人間は道徳的には全く進歩していない気がしてなりません。 知識はどんどん増えていますが、智慧はどんどん無くなっています。
世界中での詐欺、暴力、自殺、殺人、テロ
、戦争が益々増えている現実がそれを証明しています。 なるほど人間界が六道の内の修羅界の次の世界にあるのも頷ける気がします。 人類がこのまま下の修羅道と入れ替わって、畜生界、餓鬼界へと下方に落ち続け 地獄界に向かい続けるのでしょうか。
世界60億の人間は果たしてどこへ行くのでしょう。 イヤ、まだまだ人間はすてたものではないのです。 2500年前わが世尊釈迦牟尼仏が出世されました。 その意味は人類衆生の救済なのです。 もういいかげんに世尊の教えに眼を向ける時なのです。
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