| 感応詩歌 |
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「天神地祇」とは、天地間のあらゆる神々のことで、この神々の心が人々の善悪に「感応」(答える)し、「納受」(聞きとどける)していただけるという意味です。
記紀神話の中で、天照大神が、天から降りる御子に鏡を渡した時に「この鏡はひたすら私の心として、私を拝むのと同じように敬ってお祭りしなさい。」と諭したといいます。
この鏡のように、人の善悪はすべて神々に映っているので、善いことを行えば神々はこれに感応し、諸願を聞きとどけてくれるといいます。
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(”心霊学研究所”より引用)
念波の感応道交
・・・思想が一つのエーテル波動であらねばならぬことは、テレパシーの実験がなにより有力にこれを証明します。
今日においてこれを疑うものは、ラジオの原理を疑うものと同じく、とうてい理性や常識の所有者として遇することはできないのです。
さてこのテレパシーの実験において何より大切なことは、発信者と受信者との心の波長を合わせることで、それには双方とも雑念を一掃し、精神を放送すべき事物にのみ集中統一する必要があります。
そうすることによってのみ、ここに初めてテレパシーという現象が起こるのです。
テレパシーにあっては、距離は少しも問題ではありません。
心の波長さえしっくり合えば、百キロ離れても、千キロ離れても立派に通信ができます。
これに反して心の波長が合わなければ、たった二メートルほどでも決して伝達はできません。
神人合一は、神と人との心のエーテル波動の感応であり、そして神社はこの感応を可能ならしめる、もっとも神聖なる機関なのです。
ご承知の通り、地上の人間は物質的肉体に包まれており、従ってその念波ははなはだ不純であり、鈍重であるを免れません。
これを浄化してなるべく神に近づけるのには、いろいろな工夫や方法がありますが、日本の神社はそれらの中で正に最も理想的と言ってよいのです。
鬱蒼たる森林、神さびたる建物、苔蒸せる石階、清浄そのもののしめ縄、すがすがしい御手洗……人間の劣情を一掃し、人間の意念を内へ内へと導くことにかけて、地上のどこに、これ以上の境地が見出されるでしょうか。
果せるかなどんな俗物でも、神社の前に額ずいた時には、通例最も人間離れのした神心になるのです。
これは人間の側からの神社観ですが、神の側から申しますと、神は神社……なかでも、その御神体を媒体として、できるだけ人間の意念に近づくべく努力されるのです。
神霊の念波はあまりに精妙、あまりに迅速で、そのままでは、人間の世界との交通が難しい。
それで、普通何らかの器物を媒体として、その波長を緩められるのです。
御幣、御神鏡その他は決して単なる飾り物でも何でもないことは、有力な霊界通信の多くが教えるところです。
従って人間としては、極度に御神体を大切に取扱い、人間の指紋だの、人間の邪念だので、悪い記録を付けないようにしなければなりません。
これは神に対する礼としても大切ですが、しかし学術的には、それ以上に必要な実用的な事柄なのです。
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