| 稲荷信仰について |
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(”府中金盛稲荷神社”より)
稲荷は最も普及している身近な現世利益神のひとつであります。
信仰の源流は京都の稲荷大社で御祭神の倉稲魂神(うがのみたまのかみ)と密教の稲荷ダ枳尼天(だきにてん)が習合して神道系と仏教系の稲荷信仰が成立した。
稲荷神は奈良時代の和銅四年(西暦711年)二月九日の初午(立春後の最初の午の日)に渡来の有力氏族で、山城国(京都)深草を拠点のひとつとしていた奏氏の遠祖・伊侶具公がこの地に神を祀ったのに始まると伝えられています。
元来は現在の稲荷山の三つの峰を神として祀った奏氏(はたし)の氏神であったらしいが、平安時代初頭に空海(弘法大師)が山頂に有った上社、中社、下社を山麓に遷し東寺(教王護国寺)の鎮守神とした。
この頃、稲荷神社では、近接地にあった田の神を祀る田中社としてとり入れたが、その影響で祭神自体が、稲の穀霊に起源をもつ食物神・倉稲魂神とされるようになった。
稲荷の名は稲が生えるイナナニの訛りとも言われる。
稲生りは、保食神(うけもちのかみ)が月読命(つきよみのみこと)に殺されたとき、その腹に稲が生えたという神話が日本書紀などにあることから、倉稲魂神(うがのみたまのかみ)(保食神)である稲荷の神名となったとしている。
又、稲荷は空海が朝廷から東寺を与えられたとき、稲を担いだ老人に出会い、これが稲荷神であったという伝説に由来するという。
稲荷神社は平安時代を通じて、真言宗との結びつきを強めて繁栄し、その別当寺として愛染寺が設けられた。
天長四年(827年)空海が教王護国寺の搭の用材に稲荷神社の神木を伐ったところ、稲荷神のタタリがあり、それを鎮めるために従五位下の神階が授けられた。
稲荷神社にはこの後幾度も神階がが授けられ、天慶五年(942年)最高位の正一位に昇られた。
稲荷神社は平安時代を通じて朝廷の奉幣を受け二十二社のひとつとされた。
延久四年(1072年)後三条天皇が始めて稲荷神社に行幸されて以後、鎌倉時代まで祇園社と共に両社が行幸の例となった。
稲荷神社では真言密教(東密)の行法が盛んに行われ、密教系の稲荷行者によって稲荷信仰は遠近の諸国に広がった。
真言密教では、稲荷神をダ枳尼天(だきにてん)と同一とした。
ダ枳尼天は夜叉または羅刹の一種で、自在の通力を持ち6カ月前に人の死を知りその心臓を取り出して食うとされる。
ダ枳尼天の法を修めると、自在の力が得られるとされることから、修験道でも盛んにこの法を修めた。
平安時代後期にはダ枳尼天(だきにてん)の本体は霊狐とされるようになり、後の白晨狐王菩薩(びゃくしんこおうぼさつ)という別名も生じたこれはダ枳尼天がキツネに乗った姿で描かれていることから出た説のようである。
貴族の間ではキツネを炎魔天の使いとし、これに福徳を求める信仰が流行したのである。
源平盛衰記によれば平清盛はキツネを妙音天(弁財天)の化身、貴狐天王とよんで尊崇し世上では、その通力で栄達をとげたと信じられていたという。
この時期には伊勢神宮にも専女とよばれる霊狐(巫女ともいう)がおり、狐の信仰が盛んであったがその背景にはキツネを田の神の神使とする、農民の伝統的な信仰があった。
農民は身近に棲んで神秘的な性癖を示す狐を霊獣とし神使と信じていた。
狐の活動によって神が人間とくに女性にのりうつり、神の言葉を語ると広く信じられた稲荷信仰の普及と共に狐は稲荷神の使いとされ、やがて、稲荷を狐の神とし、更には稲荷神自体を狐とするにさえ至った。
稲荷神の別名の御饌津神を「三狐」大宜津姫神を「大狐神」と書くことも行われた。
こうして稲荷信仰は中世には田の神の信仰、狐の信仰と結びついて普及し、各地の農村では盛んに稲荷が勧請された。
修験道ではダ枳尼天(だきにてん)が使う動物を狐とした。
中世には修験の霊場・信州飯縄(飯綱)山の飯縄権現もダ枳尼天とされ、飯縄使いが使う呪術をもち歩いた。
江戸時代には稲荷神を使う呪術者の稲荷下げ、狐下げが民間で活動した。
室町時代に商業がめざましく発展すると、稲荷は福徳をもたらす現世利益神として都市で広く信仰されるようになった。
稲荷の神の神使である狐は尾の形が竜王の脳の中から出た珠で、これを持つとあらゆる思いが叶うという如意宝珠に似ている事から、承認の間では特に縁起がよいとされた。
江戸時代には稲荷信仰は全国に及び、東日本では同族神、屋敷神として稲荷を祀ることが一般化した。
江戸中期の都市では、稲荷は現世利益神として最も人気があり、町々に赤い鳥居に石の狐を配し、赤い社殿に「正一位稲荷大明神」の幟を立てた稲荷者が乱立するに至った。
寺院でもダ枳尼天を盛んに祀り、愛知県の豊川稲荷(曹洞宗妙厳寺)のように、稲荷信仰で全国に知られる寺院も現われた。
江戸時代中期に田辺意次(たなべおきつぐ)小身の紀州藩士から老中に出世すると、居宅に稲荷を祀っていた霊験であると評判になり、武士の間で屋敷に稲荷を祀る者が続出し、やがてこの流行は町衆にも及んだ。
初午の日に稲荷に狐の好物の油揚げを供える習慣も稲荷信仰の普及と共に広まった。
稲荷の狐が口にくわえたり、尾に巻かれたりしている宝珠は火焔の玉である。
稲荷の鳥居は赤く塗られているが、これも火?を表現しているのであり、これから稲荷神は竈にも通じ、竜神とも考えられる。
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(”北摂箕面の春夏秋冬”より)
荼吉尼天
荼吉尼天は梵語ではdakini(ダーキニー)。
夜叉神であって、もとは生きた人間の心臓を食べる鬼女であったが、マハーカラ(大黒天:シバ神の夜の姿)に敗れて、生きた人間の心臓を食べることは禁じられたが、代わりに、人が死ぬと他より先んじてその心臓を手に入れことが出来るように、人間の死を6ヶ月前に予知する能力を与えられ、強力な通力を得た。
このため、荼吉尼天の法を修する者には自在の力を与えるようになったと云う。
白い狐に跨り剣と宝珠を持つが、荼吉尼天自身が狐の精であるとも云う。
稲荷との習合
稲荷とは、本来は、穀霊である倉稲魂(うかのみたま)を祀るものであり、和銅4年、京都盆地の開拓者である秦公(はたぎみ)伊呂具(いろぐ)が祀った伏見稲荷に始まると云う。
稲荷(いなり)は「稲(い)生(な)り」であるが、その神像が稲束を荷なっているので「稲荷」と書かれるようになる。
また、この倉稲神は食物の神の意味の御食津神(みけつがみ)とも呼ばれたが、これに三狐神(みけつがみ)の字を当てたことから狐が稲荷神の眷属とされるようになる。
そして、次の段階として、稲荷神も荼吉尼天も、いずれもが狐を眷属とする類似性から、稲荷神と荼吉尼天とが習合して、両者は同一のものと考えられるようになり、荼吉尼天の方もまた稲荷と呼ばれるようになる。
すなわち、本地垂迹の考えに基づき、稲荷神と荼吉尼天とは垂迹神と本地仏の関係とされる。
こうして、荼吉尼天の像もまた稲束を荷なう姿になってゆく。
荼吉尼天について詳しい話
ダーキニーは、もともとはインドのバラマウ地方のドラヴィダ族の中の一部族、カールバース人に地母神として尊崇された麗しい裸体の女神で、土地の豊饒を司る神である。
やがて、バラモン教やヒンドウ教に取り入れられると、豊饒が愛情に変わっていって愛欲の神となり、シバァ神の夜の姿マハーカラ(大黒天)の妻カーリー(シバァ神の昼の姿の妻はパールヴァティー)の奴婢の一人とされ、小悪魔的妖精神と認識されるようになる。
ところが、仏教の中に取り入れられると、途端に猛烈な悪鬼の類となる。
愛欲によって人の心を射止めることから転じて、人の心臓を喰い人肉を喰う女夜叉(やしゃ)となる。
ところが、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)が大黒天の姿となって彼女の前に現れて威嚇し、生きた人の心臓を食べることは止めさせたが、死屍の心臓だけは食べることを許し、人の死を6ヶ月前に予知する能力を与えて、他の者に先んじて、死者の心臓を手に入れられるようにした。
そして、これによって、彼女は物凄い神通力を獲得する。彼女は死肉を食べるので、これが、死肉を喰うジャッカル(野干)と結び付けられ、ジャッカルに乗る姿で描かれるようになるが、中国や日本にはジャッカルは居ないので、これが狐に置き換わり、白狐に乗る姿となってゆく。
ところで、彼女は猛烈な通力を有しているので、彼女を信仰し、荼吉尼の法を修する者は、その通力を得ることが出来ると考えられ、修験道の中の飯縄権現を修する一派の人たちに取り入れられて、管狐(くだきつね)
を使う妖術となってゆく。
源平盛衰記が平清盛が若い時に荼吉尼の法を修して、その野望を手に入れたと記すのは真偽定かでないが、中世末期応仁の乱後の政局を動かした細川政元が飯縄の法・荼吉尼の法に凝ったことは事実である。
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