| (”京都の歴史”より) |
| 伏見稲荷大社 |
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伏見稲荷大社(昭和21年まで稲荷大神あるいは稲荷五社大明神)は、京都東山の南端の稲荷山にある。
山頂は三つの峰からなり、現在では、上中下社があり、山麓には本殿がある。本殿から三つの峰にかけて鳥居、お塚がびっしりと立ち並んでいる。
稲荷山信仰は、古墳時代の勾玉や三角縁神獣鏡などが三つの峰から発見されていることから言って、おそくとも古墳時代に遡り、稲荷山を御神体とした山の神の信仰があったと考えられる。
稲荷社の神職には、荷田氏(のち国学者の荷田春満が出る)と秦氏の二つの系統があり、荷田氏がもともとの土着氏族であったらしい。6〜7C頃、ヤマト朝廷の直轄領の管理者として秦氏が移り住み、代わりに勢力をのばしていった。
荷田氏は、竜頭太の子孫とされ、竜頭太は竜の頭で顔から光を発するという姿で、稲荷山の山麓で、昼は農耕、夜は木こりをしていたとされる(稲荷大明神流記)。
秦氏の伝承では次のようにある。秦伊呂具が裕福をほこって、餅を的として矢を射たところ、的は白鳥となり、稲荷山の峰に降りた。そこから稲が生え、「イナリ」の名が生まれたとする。
また711年には、秦中家忌寸がその祖先のあやまちを悔いるため、山の峯の木(杉)を山麓の家に祀ったとされる(山城国風土記)。
平安時代には、上中下の社殿ができ、祭神は、宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能大神の三座となった(のち五座)。
また東寺の守護社となり、現在の社務所のあたりに愛染寺が建てられた(明治維新で廃寺)。そして東寺の側から、稲荷の神はダキニ天だとされるようになった。ダキニ天は狐の背に乗った図像で描かれ、ダキニ天を祀れば富貴自在という、密教の修法「ダキニ天法」が貴族にあいだで流行した。
中世になると、鍛冶屋などの職人の守り神、江戸時代になると、商売繁盛の神ともなった。
(参考文献)
・京の社―神と仏の千三百年 /岡田 精司/塙書房
(京都の神社の歴史を解説した本はあまりないが、これはおすすめ。)
・伏見稲荷大社 /岡野 弘彦・他/淡交社
(三好和義の写真集。ほか数本のエッセイを収録。)
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| (”京都の歴史”より) |
| 京都の異界・魔界 伏見稲荷大社 |
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京都の異界・魔界とは、京都の日常風景の裏側にある、もう一つの京都で、不可思議な場所といったほどの意味である。多くの場合、「死」を喚起する場所でもある。
「死」が妖怪、幽霊、地獄などのマイナスイメージと結びつけば、「魔界」といわれ、そこに極楽、浄土などのプラスイメージをも含めると、「異界」といわれる。
京都の異界・魔界は一時期ブームとなり、そこでさまざまな場所が紹介された。そのうち「伏見稲荷大社」について。
伏見稲荷大社は東山の最南端にあり、山麓の本殿から山頂にかけて、鳥居が山道を取り囲んでいる。とにかく「朱」が印象的な場所で、至るところに、狐の像、小さな鳥居、お塚(石塔)が置かれ、ローソクが灯っている。光の具合によっては、この場所は聖性を放てば、魔性をも放つ。
古代から、山の神信仰(稲荷山信仰)があり、そこから農耕の神(稲の神)が分岐していった。
中世には、稲荷の神(稲荷大明神)は、神道からは「宇賀神」(うかじん、食物の神)、仏教、とくに密教からは「ダキニ天」(富貴自在をもたらす神で、狐の背に乗った図像で描かれる)とされ、神仏の聖地であった。
近世になると、稲荷大明神のお使いであった狐が、主役の座を占め、稲荷大明神=狐の霊と考えられるようになり、一般庶民の間に、稲荷信仰は浸透した。とくに商売繁盛のご利益があるとされた。
現在でも、稲荷信仰は息づき、神道系、仏教系、あるいは特定の宗派と関係ない人々も参拝にやってくる。けっして歴史的な遺産だけの場所ではない。
このように伏見稲荷は、現在は神社だが、神道だけの聖地であったわけではなく、仏教の聖地でもあったし、歴史を遡ると、おそらく弥生、縄文時代にまで遡る、この地に住んでいた人々の聖地だったのであろう。
確実に遡れるのは、稲荷山山頂に古墳時代の墓(古墳)があることから、その頃ではあるが。
そういう意味では、伏見稲荷は京都の異界、魔界であり続けていると言える。
(参考文献)
◎京都魔界案内―出かけよう、「発見の旅」へ /小松 和彦/光文社文庫
(京都新聞に連載したものを加筆、修正されたもの。解説は京極夏彦。)
◎ 伏見稲荷大社 /岡野 弘彦・他/淡交社
(三好和義の写真集。貴重な写真が多数収録されている。)
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| (”府中金盛稲荷神社”より) |
| 稲荷信仰について |
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稲荷は最も普及している身近な現世利益神のひとつであります。信仰の源流は京都の稲荷大社で御祭神の倉稲魂神(うがのみたまのかみ)と密教の稲荷ダ枳尼天(だきにてん)が習合して神道系と仏教系の稲荷信仰が成立した。
稲荷神は奈良時代の和銅四年(西暦711年)二月九日の初午(立春後の最初の午の日)に渡来の有力氏族で、山城国 (京都)深草を拠点のひとつとしていた奏氏の遠祖・伊侶具公がこの地に神を祀ったのに始まると伝えられています。
元来は現在の稲荷山の三つの峰を神として祀った奏氏(はたし)の氏神であったらしいが、平安時代初頭に空海(弘法大師)が山頂に有った上社、中社、下社を山麓に遷し東寺(教王護国寺)の鎮守神とした。この頃、稲荷神社では、近接地にあった田の神を祀る田中社としてとり入れたが、その影響で祭神自体が、稲の穀霊に起源をもつ食物神・倉稲魂神とされるようになった。
稲荷の名は稲が生えるイナナニの訛りとも言われる。稲生りは、保食神(うけもちのかみ)が月読命(つきよみのみこと)に殺されたとき、その腹に稲が生えたという神話が日本書紀などにあることから、倉稲魂神(うがのみたまのかみ)(保食神)である稲荷の神名となったとしている。又、稲荷は空海が朝廷から東寺を与えられたとき、稲を担いだ老人に稲出会い、これが荷神であったという伝説に由来するという。
稲荷神社は平安時代を通じて、真言宗との結びつきを強めて繁栄し、その別当字として愛染寺が設けられた。
天長四年(827年)空海が教王護国寺の搭の用材に稲荷神社の神木を伐ったところ、稲荷神社のタタリがあり、それを鎮めるために従五位下の神階が授けられた。稲荷神にはこの後幾度も神階がが授けられ、天慶五年(942年)最高位の正一位に昇けられた。
稲荷神社は平安時代を通じて朝廷の奉幣を受け二十二社のひとつとされた。延久四年(1072年)後三条天皇が始めて稲荷神社に行幸されて以後、鎌倉時代まで祇園社と共に両社が行幸の例となった。稲荷神社では真言密教(東密)の行法が盛んに行われ、密教系の稲荷業者によって稲荷信仰は遠近の諸国に広がった。
真言密教では、稲荷神をダ枳尼天(だきにてん)と同一とした。
ダ枳尼天は夜叉または羅刹の一種で、自在の通力を持ち6カ月前に人の死を知りその心臓を取り出して食うとされる。
ダ枳尼天の法を修めると、自在の力が得られるとされることから、修験道でも盛んにこの法を修めた。
平安時代後期にはダ枳尼天(だきにてん)の本体は霊狐とされるようになり、後の白晨狐王菩薩(びゃくしんこおうぼさつ)という別名も生じた。これはダ枳尼天がキツネに乗った姿で描かれていることから出た説のようである。
貴族の間ではキツネを炎魔天の使いとし、これに福徳を求める信仰が流行したのである。
源平盛衰記によれば平清盛はキツネを妙音天(弁財天)の化身、貴狐天王とよんで尊崇し世上では、その通力で栄達をとげたと信じられていたという。この時期には伊勢神宮にも専女とよばれる霊狐(巫女ともいう)がおり、狐の信仰が盛んであったがその背景にはキツネを田の神の神使とする、農民の伝統的な信仰があった。
農民は身近に棲んで神秘的な性癖を示す狐を霊獣とし神使と信じていた。狐の活動によって神が人間とくに女性にのりうつり、神の言葉を語ると広く信じられた稲荷信仰の普及と共に狐は稲荷神の使いとされ、やがて、稲荷を狐の神とし、更には稲荷神自体を狐とするにさえ至った。稲荷神の別名の御?津神を「三狐」大宜津姫神を「大狐神」と書くことも行われた。
こうして稲荷信仰は中世には田の神の信仰、狐の信仰と結びついて普及し、各地の農村では盛んに稲荷が勧請された。修験道ではダ枳尼天(だきにてん)が使う動物を狐とした。中世には修験の霊場・信州飯縄(飯綱)山の飯縄権現もダ枳尼天とされ、飯縄使いが使う呪術をもち歩いた。江戸時代には稲荷神を使う呪術者の稲荷下げ、狐下げが民間で活動した。
室町時代に商業がめざましく発展すると、稲荷は福徳をもたらす現世利益神として都市で広く信仰されるようになった。
稲荷の神の神使である狐は尾の形が竜王の脳の中から出た珠で、これを持つとあらゆる思いが叶うという如意宝珠に似ている事から、商人の間では特に縁起がよいとされた。江戸時代には稲荷信仰は全国に及び、東日本では同族神、屋敷神として稲荷を祀ることが一般化した。江戸中期の都市では、稲荷は現世利益神として最も人気があり、町々に赤い鳥居に石の狐を配し、赤い社殿に「正一位稲荷大明神」の幟を立てた稲荷社が乱立するに至った。
寺院でもダ枳尼天を盛んに祀り、愛知県の豊川稲荷(曹洞宗妙厳寺)のように、稲荷信仰で全国に知られる寺院も現われた。江戸時代中期に田辺意次(たなべおきつぐ)小身の紀州藩士から老中に出世すると、居宅に稲荷を祀っていた霊験であると評判になり、武士の間で屋敷に稲荷を祀る者が続出し、やがてこの流行は町衆にも及んだ。初午の日に稲荷に狐の好物の油揚げを供える習慣も稲荷信仰の普及と共に広まった。
稲荷の狐が口にくわえたり、尾に巻かれたりしている宝珠は火?の玉である。稲荷の鳥居は赤く塗られているが、これも火?を表現しているのであり、これから稲荷神は竈にも通じ、竜神とも考えられる。
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| (”豊受稲荷本宮”より) |
稲荷大神は宇宙遍在の霊体
稲荷大神は大いなる御霊です。一つ二つと数えられない宇宙遍在の霊体そのものです。小さな人間では全貌は捉えられません。
稲荷神社で毎日唱えられている稲荷神拝詞には『限りなき御霊の御光』と表現されています。この存在は宇宙意識そのものであり、八百万の神達とは全く次元を異にします。稲荷信仰の中で明確にこの事を認識している人はそう多くはありません。
●稲荷五社大明神
稲荷五社大明神という場合は明らかに神様が五つに数えられています。これは普遍的に照り輝く御霊の御光とは異なる角度から眺めた場合の名称です。様々な光の波動を別個に扱おうとするときにこの名称があらわれます。五つには限らないため、何が五社なのか、一つ一つあげて行くと昔から一定しないのです。
●伏見の五社と当宮の五社
伏見稲荷大社では、宇迦之御魂大神、佐田彦大神(猿田彦大神)、大宮能売大神、田中大神、四之大神を稲荷五社大神としています。
ところが当宮が宗教法人設立に際し、当局に届け出たところでは、稲蒼魂命、大己貴命、大田命、大宮姫命、保食命の五社を、五社大明神と呼んでおります。
稲蒼魂命は日本書紀の神、宇迦之御魂大神は古事記の呼び名、保食命は佐田彦大神、大宮姫命は大宮能売大神、大己貴命が田中大神、大田命が四之大神と考えられなくもない。他に稲荷五社に組み入れられる神としては須佐之男命もあります。
伏見稲荷大社の五社も明治以前と以後では名称が異なる。現在の稲荷五社大明神は明治以後に確定したものです。
神様には様々な呼び名があります。同じ神様を別の名前で呼ぶことも多いのです。早い話、古事記と日本書紀でも神名が異なります。稲荷五社の場合、名称が様々に違っていますが、稲荷信仰の場合、名称の違いにあまりこだわりがないのです。五社は、ここでは多くの専門家の意見で確定している伏見稲荷大社に合わせておくのが適当でしょう。
●中心は三柱の大神
稲荷信仰の中心はあくまで稲荷大神です。神仏習合の考え方で、稲荷大神は真言密教の大日如来に比べられています。宇宙全体を覆うものが稲荷大神なのです。このことは秦伊呂具が創建した時から稲荷大神という考え方は変りません。
はっきりしているのは、平安時代には五社ではなくて、三社だったことです。伏見稲荷は三つ峰とも上御前、中御前、下御前とも呼ばれていました。
その中心となる神が宇迦之御魂大神です。この神は女神です。次にその父親となる神が佐田彦大神、その母親が大宮能売大神です。
父と母と子という構造になっておりますが、この三角構造に稲荷信仰の原型があると考えられます。国津神の中心である猿田彦と天津神のエネルギッシュな大宮能売大神、又の名天鈿女命アメノウズメミコトが中核にあります。田中神、四之神が加わったのです。しかも加わった時代はかなり古いのです。後白河法皇が撰述した古代の歌謡集「梁塵秘抄」に次のような歌があります。
伊奈利おば 三つのやしろと 聞きしかど
今は五つのやしろなりけり
後白河法皇は一一九二年に崩御されているので、それ以前から五社になったことがわかります。
神仏習合の考え方で、五社の神を仏になぞらえると、中心の宇迦之御魂大神は釈迦如来、佐田彦大神が阿弥陀如来、大宮能売大神は薬師如来、田中神が不動明王,四之神が毘沙門天がそれぞれ本地仏と言われてきました。
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