| 修験道(参考) |
当山派と本山派の修験道を区分するというのはなかなか難しいのですが、簡単にその違いを表にしてみます。 当山派の創始者は役行者としてもよいですし、祭った神(仏)はどちらも金剛蔵王権現でも構いません。当山派には興福寺を代表とする奈良仏教も属し、本山派には彦山、大山(五流修験)などが属します。
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本山派 |
当山派 |
| 関わる仏教の開祖 |
天台宗・最澄(伝教大師) |
真言宗・空海(弘法大師) |
| 寺 |
比叡山延暦寺(下記に注) |
高野山金剛峯寺 |
| 修験道の本山 |
熊野三山 |
金峯山 |
| 大峰を南北2分割 |
南側 |
北側 |
| 元締め |
天台宗寺門派聖護院門跡 |
真言宗醍醐寺三宝院門跡 |
| 名目上創始者 |
役小角(8世紀) |
聖宝(9世紀) |
| 祭神(実際には仏) |
熊野十二所権現 |
金剛蔵王権現 |
| 本尊 |
不動明王 |
不動明王 |
| 代表的な神社 |
三峯神社、熊野神社 |
伏見稲荷神社、丹生神社 |
天台宗の最澄と真言宗の空海では、最澄の方が少し年上で、803年の遣唐使の同じ船に2人とも乗っています。僧としての位は最澄がずっと上でしたが、空海は「真言密教」をしっかり学んで還ってきたのに対し、最澄が日本にもたらしたものは中途半端な「雑密」と呼ばれるものでした。日本に帰ってしばらくすると立場は逆転します。最澄は、空海に経典を見せてもらえるよう頼んだり、自分の弟子を空海の下で勉強させようとしました。
しかし、その弟子は空海の所から最澄のもとに帰ってきません。これは密教の特殊な師弟関係からいえば仕方ないことなのですが、見方によれば最澄から空海に乗り換えたとも言えます。最澄と空海は絶交し、823年最澄は失意のうちに死にます。 その後、最澄の志を継いだ弟子たちは、天台宗の密教を完成させます。空海は天才と言われ一人で真言宗の密教を完成させましたが、最澄は弟子と共に天台の密教を完成させたのです。天台宗にはその後も優れた人材が続き、法然(浄土宗)、一遍(時宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮(日蓮宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)などの新たな宗派の開祖たちも現れます。
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| 寺門派と山門派 三井寺と延暦寺の焼き討ち合戦 |
天台宗は、それ自身で分裂を繰り返しています。平安時代には、寺門派(智証・密教系)と山門派(慈覚・浄土系)の2つに分かれてしまって、それ以後、天台宗のこの2派は激しく対立し続けます。寺門派は園城寺(滋賀・三井寺)を本拠にし、山門派は延暦寺を本拠にします。寺門派は、織田信長の延暦寺(山門派)の焼き討ちに手を貸している始末ですし、いっぽう寺門派の園城寺は、山門派によって50回も焼き討ちに合って燃えてしまったというすごい歴史を持ちます。三井寺と延暦寺の争いは「平家物語」などにかなり詳しく描かれています。
修験道本山派は天台宗・寺門派から発展していきましたから、じっさいには延暦寺との関係はなくなっています。いっぽう延暦寺を本拠とした山門派の修験道は、本山を金峯山寺として寺門派とは一線を画し、本山派や当山派とも異なる修験道に関わっています。山門派は、荘園の管理ということから白山修験道とも密接な関係があり、また東北の羽黒修験道にも深く関与しています。東北の狼神社のなかには、山門派の系統に属するもの、葉山修験という修験道の影響下にあったものなどがあります。
そのほかに狼神社には御嶽信仰(蔵王信仰)に関わるものもありますが、御嶽(吉野金峯山)は金峯山寺のある山ですから、とうぜん天台宗山門派とも関係があり、江戸時代には「天台宗・日光輪王寺門跡」に属しています。ただし、吉野金峯山は、もとから天台宗と真言宗の両派の僧によって共同で運営されていましたから、かなり複雑で、数多くある地方の「御嶽」も天台宗と真言宗の両方に関わっていることが多いようです。また、御嶽信仰は江戸時代になると修験道ともすこし異なった形態をとり、彼等はとくに「御嶽行者」と呼ばれます。狼神社のいくつかはこの御嶽行者と関わりが深いようです。
ところで、奈良・平安時代から江戸時代末まで、ずっと興隆し続けていた寺社(寺と神社)など珍しく、どの寺社もなんどか存続の危機を迎えています。いつも柔軟に時勢に対応してきた寺社でしたから、ずっと同じ宗旨(仏や神)を守り続けてきたというわけでなく、一度くらいは宗旨を変え、真言宗から天台宗に変わった例もその逆の場合もあります。そういうわけですから、関わった修験も単一ではなく、たとえ長い時代を通し本山派が主導権を握っていたとしても、ある短い期間には当山派修験が幅を利かせていたなどということは、どこの寺社においても珍しくありません。
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| 狼寺と狐神社 秋葉神社は山住神社と関係ない? |
静岡の水窪の山住神社は、秩父の三峯神社とおなじくらい有名な狼神社です。 そして、山住の里宮とも言われている春埜山大光寺は、あまり名は知られていませんが、日本一と言ってもよいくらい秀逸な狼型の狛犬をもっている寺です。同じく山住神社の里宮と言われる秋葉神社は、火伏せの神社として世に知られ、その有名さでは山住神社をはるかに上回っています。
この山住神社が狼神社として有名なため、里宮といわれる秋葉神社も同じように狼と関連つけて語られますが、この秋葉神社には実際は狼がいません。なぜでしょうか。 まず、山住神社の里宮とも言われる春埜山大光寺がどんな寺なのか確認します。
静岡春野町・春埜山大光寺 (はるのさん・たいこうじ) (曹洞宗・神仏混交) |
太白坊大権現 太梵尊天、帝釈尊天 閻魔尊天 |
マダラオオカミのお札。 狼型の狛犬。 |
春埜山大光寺の由来は、養老2年行基。もとは修験道の山。
春埜山大光寺は、寺でありながら狼がいます。今や数少ない神仏混淆の「おおかみ寺」で、曹洞宗でありながら、神にして仏でもある太白坊大権現を祀っています。 もう一つ、おなじく山住の里宮といわれる秋葉神社の歴史は、かなり複雑です。
なぜか、現在の秋葉神社の境内には、狼の影がありません。そのうえ秋葉神社は昔から秋葉大権現とか三尺坊大権現といって火難除けの神社として非常に名が知られていたのですが、今は書紀に現れている火の神を祀っています。山住神社の祭神とも違いますし、同じように里宮と言われる春埜山大光寺とも違っていています。
その理由の第一は、今の秋葉神社は祭神の三尺坊大権現(秋葉大権現)を近くの有名な曹洞宗の寺・可睡斎(かすいさい)に移し、換りに「火之迦具土神」を迎えた経緯があるからです。 第二の理由のほうは重要です。秋葉神社のある秋葉山には、いま、秋葉寺(しゅうようじ)という寺がありますが、実はこちらが秋葉神社の本家です。明治維新までは神仏習合で、秋葉寺と秋葉神宮は同じもので、同じ場所に同居していましたが、明治の神仏分離令により秋葉寺はなくなり、その跡地が今の秋葉神社です。ですから、昔の伝統を引き継いでいるのは秋葉寺、というのが真相です。 後に、秋葉寺は再興されることになりましたが、元の場所には既に「新」秋葉神社があって戻る所もなく、三尺坊大権現もなく、仕方なく秋葉山の別の所にひっそりと寺を建てました。
静岡・秋葉山秋葉寺 (曹洞宗) |
十一面観世音菩薩 将軍地蔵菩薩 |
三尺坊大権現(秋葉大権現)の看板を掲げる |
由来は、春埜山大光寺と同じ養老2年行基。大登山霊雲院(秋葉神社)がもとの名。
これら三つの寺社と三尺坊大権現との関わりは、次のようになります。 秋葉寺・・・もともと三尺坊大権現を祀っていたが、明治初期に廃される。 秋葉神社・・明治初期に「秋葉神社」となり、可睡斎へ三尺坊大権現を譲る。 可睡斎・・・現在、本殿の奥に三尺坊大権現を祀っている。 困った事に、この三つの寺社はそれぞれがそれぞれに秋葉信仰の本家のような顔をしています。秋葉寺、秋葉神社、可睡斎における「神仏分離」の経緯は下記の本に詳しく書かれています。
(PP.67-240) 「新編明治維新神仏分離史料第六巻・東海編」(名著出版2001)
昔の秋葉神社の伝統を受け継ぐ秋葉寺には、三尺坊大権現の札だけは今でもありますが、なぜか、この札は「狼」ではなくて、烏天狗(からすてんぐ)が「狐」の上に乗っている札です。「キツネ」ということは真言密教あるいは当山派修験に関係がありそうです。 山住神社はオオカミの本山派ですから、奥院と里宮の信仰がまったく異なっていることになります。秋葉神社が山住の里宮だった、というのは本当のことなのでしょうか。
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| 狐から狼に? 山住神社はキツネ神社? |
鎌倉時代、天台宗から曹洞宗などの新しい宗派が生まれたため、天台宗から曹洞宗へと改宗した寺は、かなりの数にのぼります。春埜山大光寺などもそうです。 狼神社(寺)は、天台宗から生まれた本山派修験道を基本型としているのですが、天台宗から曹洞宗へ改宗した寺はかなり多いので、狼神社(寺)のなかにも曹洞宗がかなりあります。また曹洞宗は、通常は釈迦牟尼を本尊とする事が多いのですが、このように改宗した寺が多い為、以前の宗派の本尊をそのまま引き継いでいる場合もあって、本尊はそれほど統一されていません。
例えば、豊川の曹洞宗・妙厳寺は、稲荷神と同体とされる荼枳尼天(だきにてん)を祀ります。オオカミで曹洞宗という上記の春埜山大光寺と同じくらい面白い、もうひとつの形態がキツネの曹洞宗で、有名な豊川稲荷がこれです。仏教でありながら、なぜか神社のように「稲荷神」を祀っているということになります。
曹洞宗の妙厳寺が、稲荷神を祀っている理由としては、もともと妙厳寺では「荼枳尼天」を守護神として祀っていますが、多くの稲荷社でも「稲荷神=荼枳尼天」とみなしています。そこで、妙厳寺でも「荼枳尼天」を「稲荷神」と同じものとして、「稲荷神」を祀るようになったとされています。
しかし果たしてそうでしょうか。話はもっと簡単なような気がします。 天台密教(台密)でも真言密教(東密)でも、荼枳尼天は大変重要な仏で、とくに東密では荼枳尼天と稲荷神を同じものとみなしています。妙厳寺がかつて密教に関係した寺であったなら、荼枳尼天を祀っているのは不思議ではありませんし、真言宗から改宗し曹洞宗になった寺もかなりの数に及び、全国には天台宗の流れを汲む曹洞宗でありながら、真言宗の稲荷を祀ってある寺もかなりあります。また、不思議な気もしますが、天台宗(比叡山)のお膝元の日吉神社には稲荷社もあるくらいで、寺が稲荷堂を管理していても不思議はありません。
荼枳尼天を祀るのは山住神社の里宮、秋葉山秋葉寺(しゅうようじ)も同様で、こちらも曹洞宗です。しかし、こちらはキツネとオオカミが混じってもっと複雑になりますので、いままでのパターンを少し整理します。 天台宗系修験道の狼神社の三峯神社などと、真言宗系修験道の狐神社の伏見稲荷などは神使は違いますが、原初の形のまま現代まで残ってきたものです。そしてもう一つの形が、途中で天台宗から改宗した曹洞宗の狼神社(春埜山大光寺)や、真言宗から改宗したと思われる曹洞宗の狐神社(豊川稲荷)です。
そして、秋葉山・秋葉寺(しゅうようじ)が更に複雑だというわけは、真言宗系・キツネ系の荼枳尼天を祀りながら、オオカミ系の山住神社の里宮と言われているからです。オオカミ神社の里宮が、キツネを祀っているというのは不可解です。 これの答えは、柳田国男が出しています。
山住は地形が明白に我々に語るごとく、本来秋葉の奥の院であった。しかるに、いつのころよりかニ処の信仰は分立して、三尺坊大権現の管轄は、ついに広大なる奥山に及ばなかったのである。
「山の人生」柳田国男著
上記の文を読むと、途中から山住神社と秋葉神社は異なる信仰を持ったようで、三尺坊大権現(秋葉大権現)の管轄から山住神社が離れていったようです。柳田国男の言が確かなら、秋葉神社は狼神社ではなくて、最初から変わることなくずっと狐神社だったのです。もとから秋葉山はキツネの山で、山住神社のほうがキツネからオオカミに、つまり真言宗系修験道から、天台宗系修験道に変わった可能性があります。神使の狐を、途中から狼に変えたことになります。
秋葉山・秋葉寺の三尺坊大権現が、狐に乗った烏天狗の荼枳尼天であるのは、秋葉山が真言密教であったため当然のことです。それ故、秋葉山にオオカミの痕跡が全くないのも当然です。そして、山住神社は世にも珍しい、キツネからオオカミに変わった神社なのかもしれません。当山派から本山派に変わった可能性があります。もはや山住神社と全く関係のない秋葉神社で、狼探しが徒労に終わるのは当然ですが、元の秋葉神社である秋葉寺でも狼を見つけられないのはそのためです。逆に、秋葉寺や山住神社で、狐探しをした方が面白い結果が得られると思います。境内のどこかに、キツネの足跡くらい見つかるかもしれません。
延暦寺と関係のあるとされる東北の羽黒山も、稲荷社で祀っている「宇賀御魂神」を祭神としています。この経緯は、当初、真言宗の山だったのが、江戸時代初期に天台宗に代わったためで、こちらは山住神社の歴史などよりずっと確かです。
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