なぜ伏見稲荷と狐が結び付いたのか、梅原猛氏はその理由を追い求めるうちに、稲荷社に関わる古代の有力氏族である秦氏が、「日本書紀」のなかでは狼とともに登場していることに気付きました。欽明紀の「二狼相闘」に登場する「秦大津父」です。 「山城国風土記」逸文とされる伏見稲荷に関する有名な文章、「伊奈利と称ふは、秦中家忌寸差が遠つ祖、伊呂倶の秦公、稲を積みて富み裕ひき」。ここに登場している伊呂倶はもちろん秦の一族ですから、秦氏と伏見稲荷の関係は明白です。いっぽう『日本書紀』の「欽明紀」に登場している秦大津父は狼に関係しています。 稲荷(伊奈利)と秦氏、秦氏と狼の関係は文書によって明らかですし、稲荷社と狐の関係は否定できない現実です。そういうわけで稲荷社の狐はもとは狼だったという意見が述べられるのです。
『日本書紀』の「欽明天皇即位前記」の記事によれば、秦氏と関係のある動物は狐よりむしろ狼である。稲荷の神に関係が深い動物は、もとは狐ではなく狼であったかも知れない。狼は古代日本人にとって獣の中で最も崇拝された神であり、アイヌにおいても、狼は獣の王者として厚く敬われる。それで「大神」「真神」とも書かれる。この稲荷社は、空海と関係が深いが、空海が高野山を開くに当たってまず許可を得たのは狩場明神という俗体の狩猟神であり、この神の眷属は山犬であった。山犬と狼はほぼ同じものであり、このことによっても伏見稲荷の神の眷属もかつては狼、或いは山犬ではなかったか。それがいつのまにか里近くに住む狐に置き換えられたのであろう・・・ (P.163)「京都発見一・地霊鎮魂」梅原猛著(新潮社1997)
「狼は古代日本人にとって獣の中で最も崇拝された神」という部分は、確かな根拠があって言っているのでありません。「最も崇拝」とまでなぜ言い切ってしまったのか、勢い余ってというところでしょうか。 「狩場明神の眷属は山犬だった」の部分は、次の項「狐狼の論理」で論じます。
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| 谷川健一氏 二十二年前 |
梅原氏の説には先駆者があって、二十二年前のことです。 民俗学の谷川健一氏は、その著「神・人間・動物」のなかでまったく同じように「山城国風土記」逸文の伏見稲荷の縁起と「日本書紀」の二狼相闘の記事とを取り上げ、そこに共通して登場する「秦氏」について言及してから、次のように問いかけています。
狐に縁由のふかい秦氏の祖先が、狼に出会って格闘を中止させたというエピソードはその背後に何を物語っているのだろうか。(P.167)「神・人間・動物」谷川健一著(平凡社1975)
谷川氏も梅原氏とそっくりそのままの方法論で、共通する氏である秦氏と狐、そして狼の三者をならべて、狐と狼の密接な関係を暗示します。 このあと谷川氏の歩んだ方向は、梅原氏とは微妙に異なっているかもしれません。
すくなくとも狼と狐とは山の神秘を告げる動物として無縁ではなかった。狼が狐とおなじように怜悧な動物とみなされて、狼が仔を産んだと聞いては山村の人たちが狼の好物の塩をもって産見舞にいくという習慣があるというのは、狐の寒施行にその好物の赤飯や油揚をそなえるのとおなじ行為である。(P.167、168)「神・人間・動物」谷川健一著(平凡社1975)
「狐の寒施行」と「狼の産見舞い」の二つの行事がよく似ていることを根拠に、「山の神秘を告げる動物」としてキツネとオオカミはおなじ役割を果たしてきたというものです。狼が狐に変化したという梅原氏の主張ほどには過激ではありません。
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| 近藤喜博氏 三十四年前 |
梅原氏に先立つこと三十四年、同じように「稲荷の狐はもと狼」説をたてた人がいます。それは稲荷信仰研究の大御所、近藤喜博氏で、福島の竹駒神社で行なわれている「狐の御産会」神事を例にとって仔狐が生まれたとき「御産会」と称する行事があり、狼にも「産見舞い」の風習があることに基づいて述べています。もちろんもうひとつの根拠として「欽明紀の二狼相闘」も挙げられていますから、谷川氏ともよく似た推論です。
狐信仰となる以前の竹駒神社の御産会神事の原姿といったものは、山犬といわれるオオカミ、オオカミとしての山犬ーそれは山の神としてーの信仰に基づいたものではなかったのか、ということである。(P.24)
「稲荷信仰の起源と普及」近藤喜博著『民衆宗教史叢書第三巻・稲荷信仰』直江廣治編(雄山閣出版1983)
近藤氏には「古代信仰研究」という稲荷信仰の分厚い本があり、そこで述べられている「狼と狐」の考えのほうがより詳しいので、次の「狐狼の論理」で論じます。
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| 西田長男氏 四十三年前 |
梅原氏とそっくりそのまま「狐は狼から生まれた」という説は、梅原氏の書より四十三年も前、西田長男氏がすでに表明しています。
大津父は、いわば深草街道・伏見街道、あるいは深草越・伏見越とも名づくべき、かの八科峠の狼谷・大亀谷において、たまたま二匹の相闘う狼を助けたために、その現報によって大いに饒富を致し、ついに国家の財政を主管するに至ったといわれているが、この二匹の狼はすでに「汝是貴神」とも記されているように、神そのものとして考えられていたのである。大津父がその狼に対し「下馬洗漱口手祈請曰」ったとあるのは、神についての作法を語るものにほかならない。「オオカミ」というのが、すでに「大神」の意であることはあらためて述べるまでもないであろう。それが一般の神であると考えられていたこともまたここに説明を加えるまでもないだろう。また、稲荷神の原初的形態が山の神即田の神であったこともすでに述べた。しかりとすれば、この物語は明らかに稲荷社の縁起ー霊験記ーを語るものにほかならないのではなかろうか。すなわち狼とは稲荷社の眷属たる狐神で、古くはこの狐は狼であったのではあるまいか。小芋・阿古町の稲荷神の神使・命婦は狐であるとともに、また「貴神」としての狼であった、とされるであろう。ここにおいて、稲荷社の起源は欽明天皇の御代もしくはそれ以前に溯らなければならなくなるであろう。(P.257、258)「稲荷社の起源(1954)」西田長男著『民衆宗教史叢書第三巻』
「大亀谷」は狼谷、狼は大神という馴染み深い観念とともに、稲荷神の神使は狐であると共に狼であり、稲荷社の起源は欽明紀まで遡ると書かれています。もちろん確かな根拠があるわけでもなく「だろう」と「かもしれない」を繰り返して導き出されたもので、西田氏自身も「試論」と語っています。
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| 伴信友 162年前 |
梅原氏等の「狐は狼から生まれた」というような見解は、確かな資料に基づいているわけでもなく、それほど複雑な論理が必要というわけでもありません。どちらかといえばまったく単純で、狼の「秦大津父」と狐の「秦伊呂具」が同じ「秦氏」であるということだけを根拠にしているわけですから、とうぜん昔から誰もが気付いています。 同じ視点から論じたものは明治期にもあって、江戸時代にもあります。江戸時代の京都で活躍した伴信友は、1835年に「稲荷神考證」という副題が付いた「験の杉(しるしのすぎ)」という書のなかで、同じように秦氏と狼、そして狐に言及しています。
伊奈利山は紀伊郡にて、伊呂具は其わたりの人ときこゆるに、欽明紀に・・・遣使普求、得自山背国紀伊郡深草里・・・と見えたり、深草里は則伊奈利山に近き處にて、今もかくれなく、・・又深草より大津に越る山中に、狼谷と云がありて、その山下に狼谷村といふもあり、(今なべては大亀谷と書けり)大津父が狼に逢ひたりし所なるべし、(P.346) 欽明紀に伊呂具公の祖ときこゆる、秦ノ大津父・・・伊呂具は大津父が裔にて、代々深草わたりに住みて・・・(P.391)「験の杉」「伴信友全集」巻二(ぺりかん社1977)
秦伊呂具は伊奈利山の近くの人であり、秦大津父も伊奈利山に近い深草の人だと書き、そして深草にある大亀谷こそ大津父が狼に逢ったところだと決め付けて、「伊呂具は大津父が裔にて」と、稲荷(きつね)の伊呂具と狼の大津父が、その共通の「氏」ゆえに関連付けられ論じられていきます。 伴信友は、後の時代の「狼研究者」と「稲荷研究家の狐狼同祖論」のために、狼神社のことまで言及しています。
丹後國加佐郡に大川大明神の社あり、此神社式に載せられたり、狼を使者としたまふと云ひ傳へて、(或は狼大明神とも呼べり)・・・武蔵國秩父郡三峯神社あり、其山に狼いと多し、これも其神に祈願ば、狼来りて猪野鹿を治め・・・(P.391)
「験の杉」「伴信友全集」巻二(ぺりかん社1977)
これは熊楠が書いていたものとまったく同じ文章です。伴信友が書いたこの狼に関する部分は江戸末期の「嚶々筆話」に「しるしの杉追加」という題でも載っていて、狼本はすべてこちらを引用しています。 「験の杉」の信友は、東寺の「稲荷伝承」が矛盾点を抱えていることに露骨に嫌悪感を示しています。
稲荷神に種々の偽妄の説あること いにしえの最澄空海等が徒、おのれが仏道を人に信しめ、世に弘めむ謀に、神に本地垂迹と云事をたてて・・・(P.391)
「験の杉」「伴信友全集」巻二(ぺりかん社1977)
尊王思想の濃厚な信友が密教や修験道に反感を覚えるのはとうぜんで、信友が「空海の徒が作った稲荷神の種々の偽妄の説」と批判するのも当たり前ですが、「稲荷神」とはもともと空海の徒が作りあげた「虚妄の神」そのものなのかもしれません。稲荷信仰が複雑である理由のひとつは、たしかに空海の密教のせいです。 伴信友の「験の杉」ほど「稲荷」を多くの視点から追求したものはなく、その内容を越える稲荷研究書はもはや現れそうにありません。たとえ現代の稲荷研究書に伴信友の名がなくとも、その内容もその捉え方も伴信友から生まれたものであり、梅原氏、近藤氏、谷川氏、西田氏はまさに伴信友の子供たちです。
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| 狐狼の論理 近藤喜博著「古代信仰研究」 |
近藤喜博氏の稲荷研究の集大成、「古代信仰研究」の内容は伴信友によって論じられたものがほとんどとはいえ、稲荷社の狐と狼の関わりについては信友より多弁ですし、提示した狼の資料も増えています。 近藤氏の「狐と狼」の関係は、「狐が狼から生まれた」というより稲荷山にはもともと二種類の動物、狼と狐がいて、「狼は衰え、狐は盛んになった」というようなものです。
秦大津父が山中で出遇った狼は、一種の護法として早く稲荷山に関係し・・・狐も狼も共に、稲荷山には古い時代からの護法の連続であったと考えられ、後々狐のみが、稲荷山を占領した如くなってしまった。(P.291)「古代信仰研究」近藤喜博著(角川書店1963)
「欽明前紀の狼神(P.307)」と語る如く、近藤氏も古代に狼が神として信仰されていたことは確信していますが、ここでの「狼」はキツネとともに、神というよりむしろ「護法的存在」として欽明天皇以前から稲荷山に存在したとしています。 しかしながら「護法」とは守護者、召使いを意味する仏教の概念で、稲荷山のキツネが「護法」とみなされるのも、稲荷山がもともと真言密教(東寺)と関わりがある神仏習合の山だからです。とうぜん稲荷山に「護法」の観念が現れたのは仏教がそこに関わってからですから、空海の真言密教の時代、あるいはそれ以後のことになります。いっぽう「護法」の概念によく似た「神の使者」という語は、すでに「日本書紀」「古事記」のヤマトタケル説話に現れています。
膽吹山山神化大蛇當道。爰日本武尊不知主神化蛇之謂。是大蛇必荒神之使也。既得殺主神。其使者豈足求乎。因跨蛇猶行。・・・「日本書紀・景行天皇四〇年」
是化白猪者、其神之使者、雖今不殺、還時将殺・・・此化白猪者、非其神之使者、当其神之正身、・・・「古事記・景行天皇」
伊吹山で出会った「大蛇」あるいは「白猪」のことです。 近藤氏は、この「神之使」や「神之使者」まで「護法的存在」と見なします。たしかに近世の寺社における「神使」と「護法」は似たような概念になっていますが、それは中近世に神仏習合が進んだ結果として同じような意味合いを持つに至っただけで、ヤマトタケル説話の「神之使」まで「護法」と見なすのは、まったく時代を無視した考えと思われます。かといって勘違いをしているというのではなく、近藤氏はあえて仏教の「護法」という概念を用いているのであり、「護法」の概念を再定義までしています。
護法を精霊的なもの、スピリット的なものとして取り扱おう・・(P.222) 護法そのものは本来凡眼には見えぬが、存在を信じられた精霊の一種なので、そうした護法の典型的なものは、「信貴山縁起」に現れてくる護法であろう。(P.224)
「古代信仰研究」近藤喜博著(角川書店1963)
「信貴山縁起」に現れてくる「剣の護法」は、童子形で仏教の護法そのものとも思えますが、再定義した結果、「精霊」の一種にされてしまいます。果たしてこのような「護法」の再定義が、既存の「護法」、つまり仏教の「護法」の概念と折り合いをつけられるでしょうか。たとえば、近藤氏は「弘法大師行状絵図」に描かれた「二童子を従える稲荷明神」を見て、稲荷神はもともと山神であるからとして次のように語っています。
この二童子はもともと山神の護法に発するものとも思われる(P.247)
「古代信仰研究」近藤喜博著(角川書店1963)
近藤氏の意図は明白で、稲荷明神が従える「童子」を日本書紀などに現れている「山神の使者=動物」に結びつけることです。つまり童子は山神の護法であり、山神の使者であり、キツネと言いたいのです。ついでに稲荷山のキツネのいわれを記紀の時代まで遡らせようということでしょう。 ただし近藤氏は、童子あるいはキツネを使役する主体を「山神」と決め付けて、「山神の護法」と言っていますが、本来の解釈では「弘法大師行状絵図」に描かれた稲荷明神(山神)には本地仏があり、童子はその本地仏の護法とは言えますが「山神の護法」とは言いません。修験道の「護法」についての宮家準氏の解説を再掲します。
護法は主尊や行者の眷属となって、その使役に応える童子、王子、天狗、鬼さらに動物の類である。・・・護法はもとは山の神、鎮守、地主神、社寺の主尊の眷属などである。・・また、修行の末に主尊の験力を獲得した行者などに使役されて悪霊の調伏にあたると信じられている。(P.871)「修験道思想の研究」
実際は「山神」そのものが「護法」であって、たとえば役行者が地主神である一言主を使役するというような形がふつうであり、童子も山神もともに仏者の護法です。たしかに近藤氏は「精霊=護法」と再定義していましたから、「精霊」に守護するとか使役されるという概念があるのかないか気にはなりますが、言葉のうえでは「山神の護法」は「山神の精霊」とも言い換えることも可能です。しかし、経典や修法まで備わっている「護法」を「精霊」という曖昧なものに転化させること、もともと仏教の概念である「護法」をすべて「精霊」とか「神の使者=動物」に置き換えること、そこにはどうしても無理が生じてしまいそうです。「神の使者=動物」と「護法」を同一視すべく護法の例を挙げればあげるほど近藤氏は混乱してきます。
熊野詣還幸に於ける稲荷奉幣が、稲荷の護法にあるとして、稲荷山の狐への関係を辿る順序を付けた・・(P.249)「古代信仰研究」近藤喜博著(角川書店1963)
「護法」といえば、「山神の使者」である「動物」を思い浮かべてしまう近藤氏は、熊野詣において「長者」が護法であった時代もあるにもかかわらず、ここでも「狐の護法」を虚しく捜し求めています。「動物の護法」について、再び宮家氏の見解を挙げます。
修験者によって操作される神霊の種類を見ると、次のような時代による差異が感じられる。すなわち、まず古代に於いては、役小角が鬼神を使役したという話に見られるように鬼神が操作されている。ところが古代末から中世初期には護法が用いられている。しかし、中世期を通じて多く見られるのは童子や飯綱などの類である。そして近世になってくると、狐、蛇、狸、犬などの動物霊を操作するというようになり、さらにその後は、神霊が見られるようになってきているのである。(PP.29-30)「修験道と日本宗教」
キツネは動物のうちでは早くから護法の地位を確保していたとはいえ、当初の「護法」には鬼神や童子があてられ、動物が充てられるようになるのはかなり時代が下がります。 けっきょく「護法」の再定義など無理な話で、近藤氏が「狩場明神と犬」を語るとき、その破綻は明らかになっています。
「狩場明神御影」に「高野護法、御足常裂血流」と着賛されて、諸国廻遊の趣を示すのは、中世これが他ならぬ高野の護法と思われていたことを傳えていよう。しかも、この高野護法を役使する狩場明神は、もとを正せば南山の犬飼、即ち狩師であった。 (P.290)「古代信仰研究」近藤喜博著(角川書店1963)
「狩場明神御影」に描かれている犬と狩場明神のうち、足が裂け血を流しているのは狩場明神であって、犬ではありません。しかし近藤氏にとって「護法」と言えば「山神の使者」としての「動物」ですから、「高野護法」と書かれているからにはそれは「犬」であろうと考えます。それゆえ「高野護法を役使する狩場明神」と言ってしまったのです。ところが「高野護法」とは狩場明神自身で、実際、狩場明神や丹生明神が、空海や真言密教の「護法」とされるのは周知の事実です。「神」が仏者の「護法」になってしまうのが神仏習合の論理です。 なぜ古代のキツネや狼を論じるのに、神仏習合後の概念である「護法キツネ」を必要とするのかもよくわかりませんが、神仏習合そのものであるような「護法」という概念から、古代のキツネや狼がまともな姿で現れてくるとは思われません。
次に、狼について書かれた部分を検証します。 「古代の稲荷山に狼が存在した」根拠として近藤氏が挙げた「狼・山犬」の資料は、ほとんど全滅かもしれません。
1 高野狩場明神が従えた白黒二犬の動物も、単なる犬ではなく、狼に近い山犬と見られるのが思い起こされる。(P.290)「古代信仰研究」近藤喜博著(角川書店1963)
梅原猛氏も「狩場明神の眷属は山犬」と語っていました。梅原氏や近藤氏がいつの時代に作られた伝承に基づいて、山犬と言っているのかわかりませんが、少なくとも初期の「高野山開山伝説」では「単なる犬」です。 空海と高野山、そして稲荷山の三つの関係において、キツネの起源を狩場明神の「山犬」に求めるというなら、せめて最初の高野開山伝承くらいは「山犬」でなければ意味がありません。後の時代に作られた伝承で「山犬」とされていたところで、それはその時代の要請に応えて書き換えられたというに過ぎません。近藤氏は、初期の高野山開山伝承に基づく「大小ニ黒犬」ではない「黒白二犬」を取りあげていますので、かなり新しい伝承に基づいての発言かもしれません。引用元を確認してみましょう。
「秘密縁起」にこう伝えている。一人の猟師に行逢ぬ。・・・黒白の犬を二疋具せり・・・この事はすでに「弘法大師御遺告二十五箇条」にも、或いは・・「高野大師御廣傳」にも見える古傳である・・・(P.81、82)「古代信仰研究」近藤喜博著(角川書店1963)
近藤氏がその内容まで引用したのは「秘密縁起」だけですが、ここにも「犬」としか書かれていませんし、「高野大師御廣傳」でも「犬」で「弘法大師御遺告二十五箇条」に至っては狩場明神も犬も登場しません。
これは「太政官符案并遺告」と勘違いしたのかもしれませんが、そこでもやはり「犬」です。 次は「狼の神符」、白山比盗_社の黒白二犬です。
2 加賀の白山比盗_御影の下に侍る白黒の山犬は、これ亦眷属として大口真神的なものと眺めなければならない。(P.291)「古代信仰研究」近藤喜博著(角川書店1963)
白山比盗_社の起請文絵図の動物を「山犬」とみなすべき根拠はどこにもありません。また「白山比盗_御影の下」と書いていますが、これは間違いで、これもまた「狩場明神」です。(「白山の御犬」参照) 下記は、言うまでもありません。
3 丹後国加佐郡大川大明神、一名を狼大明神と呼ばれるは、狼を使者とし・・・大和の玉置山でもまた狼を神使とし、これについて南方熊楠翁の述べるところ詳細である・・・(P.291)「古代信仰研究」近藤喜博著(角川書店1963)
「大川大明神」は、伴信友からの引用なのか南方熊楠のものか、両方からとも言えますが、「玉置山」の方には熊楠の名がはっきり書かれています。熊楠の意見を鵜呑みにした気の毒な人は、ここにもいたことになります。 近藤氏は、稲荷山近くの「大亀谷」についても語っています。この谷は、秦大津父の狼の伝承に基づいて、伴信友などは「狼谷」と解釈していました。
おおかみ谷とは、・・オガミ谷(拝み谷)で、イナリへの拝所でなければならなかった。 (P.150)「古代信仰研究」近藤喜博著(角川書店1963)
これは、近藤氏の意見が正しいかもしれません。また、水神である「オカミ神」を祀ったから「オカミ谷」とする見方もありますが、これも有効な見解でしょう。 近藤氏は「古代信仰研究」から十五年経って再び著した「稲荷信仰」においても、その論点は変わっていません。護法も狼と狐の関係もです。
では護法とは何であるのだろうか。『日本霊異記』には早く見えていたが、それは精霊的なものと考えられ・・・稲荷山にももちろん護法が存在していた。・・・そのはじめイナリ護法は狼によるかと思われなくもないだろう。(P.167、168)
「稲荷信仰」近藤喜博著(塙書房1978)
ところで、実際、狼がいつごろから神使になったのか明確ではありませんが、「太平記」(1370年ころ)に書かれている「弘安の役」の蒙古襲来で、日本を護る為に立ち上がった「神使」たちのなかに狼はいません。しかし狐はいます。
・・・春日野ノ神鹿・熊野ノ霊烏・気比宮ノ白鷺・稲荷山ノ名婦・比叡ノ猿、社々ノ仕者、悉虚空ヲ西ヘ飛去ルト・・・異賊ヲ退ケ給ハム・・・ (P.453)巻第三十九「太平記三」日本古典文学体系36(岩波書店1962)
「稲荷山ノ名婦」と呼ばれる「狐」は、この時代にたしかに現れていますが、かといってそんなに古くまでは辿れません。稲荷山にキツネが現れたのを1070年頃としているものもありますが、信用できるものは1200年代になってからで、いずれにせよ狼が書かれていた欽明紀とは五百年以上離れています。そうすると、「狐の起源は狼である」説は、狼について云々することより、欽明紀どころか空海の時代にも達しない稲荷山のキツネの歴史のほうこそ大きな問題です。
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| 稲荷山と秦氏と動物 |
稲荷山に関係する動物は、キツネだけではありません。中村禎里氏や吉野裕子氏などは、キツネ信仰が生まれる前の稲荷山には「蛇信仰」があったと推測しています。
伏見稲荷の縁起はまた、稲作を主轄する動物がヘビからキツネに転換していった経過を明らかにするのにも役立つ。 稲荷山にがんらいヘビ信仰が存在していたことはほぼ間違いないだろう。 (P.158、159)「日本人の動物観」中村禎里著(海鳴社1984)
ここで中村氏が指摘している伏見稲荷の縁起とは「稲荷明神流記」のことで、この縁起はキツネと稲荷神の関係を説いていると同時に「竜頭太」というヘビ(竜)についても書いています。下記に「竜頭太」の資料あり。
参考資料「稲荷神とダキニ天」
また秦氏に関係する動物も、キツネとオオカミだけではありません。 秦氏の氏神社(氏寺)として有名な「大避神社(太秦広隆寺)」は「牛祭り」が有名で、とうぜん大避神社では「牛」が眷属です。この牛の由来は、平安初期の最澄や慈覚大師に置くのが一般的ですので、古代まで溯れるというわけではありませんが、キツネよりはずっと古くからの関係です。
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| 野干 |
真言密教では、稲荷神は「狐に跨ったダキニ天」として考えられていますが、中国の「ダキニ天」は「野干」に跨ったものとされていました。日本にやって来てから「キツネ」に跨ったものとみなされたのです。 南方熊楠や平岩米吉氏は、「野干」のもともとは「ジャッカル」であったと推測していますが、これはインドのゴールデンジャッカルのことで、二人の言葉を信じれば、本来は「
Canis aureus
に跨ったダキニ天」ということになります。 平安期は、この「野干」を狼と見なす考えも一部にはあったかもしれません。
「本草和名」(918) 「犲 皮 一名野干
和於保加美」
もちろん「本草和名」におけるこのような分類は中国からの受け売りでしょうが、当時の日本に「野干にまたがるダキニ天」を「狼にまたがるダキニ天」と考える思想があっても不思議ではありませんし、さらに言えばもともとの「ゴールデンジャッカルに跨ったダキニ天」の絵図などが、平安期に描かれていてもおかしくはありません。 ただし、中近世の日本では、野干はキツネとしてだけ認識され、平安以後は上記の「本草和名」のような例外すら存在しなくなります。つまり、もともとはジャッカルであったとしても、中近世に描かれたダキニ天が乗る動物はキツネ以外のものではありません。
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| 狩場明神の山犬 |
近藤氏が「狩場明神の山犬」の根拠とした「高野大師御廣傳」と「弘法大師御遺告二十五箇条」、そして参考までに「太政官符案并遺告」も引用しておきます。
「高野大師御廣傳」 逢猟者。其形深赤。長八許尺。着青衣袖狭。骨高筋太。執弓帯箭。大小二黒犬随之。 (P.131)「高野大師御廣傳・上」「弘法大師全集・首巻」(密教文化研究所1978)
「弘法大師御遺告二十五箇条」には、「明神ノ衛護アリ」とあるだけで、狩場明神(高野明神)も犬も登場しません。「丹生津姫命」は登場しています。
「弘法大師御遺告二十五箇条」 高雄ノ旧居ヲ去リテ移リテ 南山ニ入ル 厥ノ峯ハ遙ニシテ遠ク人気ヲ阻テタリ 吾レ居住ノ時 頻リニ 明神ノ衛護アリ。常ニ門人ニ語ラク 吾ガ性山水ニ狎レテ人事ニ疎ナリ。亦 是レ浮雲ノ類ナリ。・・・(P.786、787)
「弘法大師全集・第二輯」(密教文化研究所1978)
「太政官符案并遺告」は、金剛峰寺の領する高野山の土地がどの範囲までのかを「紀伊国司史」宛てに書いたもので、「太政官符案文」、空海の「遺告住山弟子等」、犬について書かれた「丹生津比賈及高野明神仕丹生祝氏」、そして「高野山の絵図」が添付されています。それぞれ弘仁七年(816)、承和元年(834)、延暦十九年(800)、承和三年(836)の日付があり、最後に建武二年(1335)の日付が書かれています。 まず「遺告住山弟子等」は「弘法大師御遺告二十五箇条」によく似た表現で、「高野明神」の名がここに登場しています。
「遺告住山弟子等」 是ノ峯ハ絶遙ニシテ人気ヲ阻テタリ 吾レ住スル時 頻リニ 明神ノ示現アリ。名ヲ丹生津比女高野明神ト曰フ・・・(P.773)「太政官符并遺告」「弘法大師全集第二輯」
下記の「丹生津比賈及高野明神仕丹生祝氏」では、初期伝承での「ニ黒犬」が変化して「黒白二犬」になっていますから、建武以後、高野山開山伝承の犬は「黒白二犬」に変わったと思われます。 なお文中の「犬黒比」には「続年譜においては大黒比」という「注」が付けられていますから、「イヌ黒比」ではなく「ダイ黒比」が正しいのかもしれません。
「丹生津比賈及高野明神仕丹生祝氏」 ・・・並ニ二柱進物(たてまつるもの)ハ紀伊国ノ黒犬一件(ひとつら) 阿波遅国三原郡ノ白犬一件・・・又此ノ犬耳(いぬかひ)ノ蔵吉人(くらよしひと)ハ三野ノ国ニ在ル牟毛津(むもつ)ト云フ人ノ児 犬黒比(いぬくろひ)ト云フ人ハ此ノ人ヲ寄セ奉ル。此ノ人等ハ 今ノ丹生人ト云フ姓ヲ賜ハラセシメテ 別ケ奉ル犬黒比ト云フ者。彼ノ御犬(みいぬ)二件率ヒ 弓矢ヲ引ク。・・(P.776、777) 「太政官符并遺告」「弘法大師全集第二輯」
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